宇和島市議会 2022-12-09 12月09日-04号
それじゃ、7点目でございますが、豊臣秀吉像修復に見る文化財保護について。ちょっと難しい名前にしてしまったんですが、大したことはないんですが。 伊達博物館所蔵の絹本着色豊臣秀吉像の修復が終わりまして、先日、展示会、私も行ってまいりました。重要文化財を身近に観覧できるというのは、ぜいたくなことです。宇和島藩初代伊達秀宗が秀吉の養子でもありまして、展示には秀吉とか家康などの名前も散見できました。
それじゃ、7点目でございますが、豊臣秀吉像修復に見る文化財保護について。ちょっと難しい名前にしてしまったんですが、大したことはないんですが。 伊達博物館所蔵の絹本着色豊臣秀吉像の修復が終わりまして、先日、展示会、私も行ってまいりました。重要文化財を身近に観覧できるというのは、ぜいたくなことです。宇和島藩初代伊達秀宗が秀吉の養子でもありまして、展示には秀吉とか家康などの名前も散見できました。
そこでお聞きしたいのですが、伊達博物館所有で重要文化財に指定されているものは豊臣秀吉の肖像画だけですよね。肖像画は国内に残っているものの中で最も優れたもので、歴史の教科書に使用されているもの、このことは多くの方々が承知されていることだと思います。さて、宇和島市には、伊達博物館には国宝級のものがあるのかをお尋ねしたいです。片山教育部長に御所見をお伺いいたします。
伊達博物館所蔵の文物は、散逸した大名家が多い中で、国の指定重要文化財、豊臣秀吉画像をはじめとして、大変貴重なものがあると聞いておりますけれども、ここで改めて伊達家の文化財、主だったもののをお聞かせ願えたらと思うんですが。 〔「議長」と呼ぶ者あり〕 ○副議長(中平政志君) 片山教育部長。 ◎教育部長(片山治彦君) お答えいたします。
さらには、現伊達博物館におきましては、昨日報道にあったかと思いますけれども、国の重要文化財でございます秀吉像が、長年の保存修理作業を終えまして帰ってきております。この秋期の特別展で、この本物を展示をさていただく予定で今動いておりますので、様々な要素を加えながら、この地域に来ていただき、満足していただけるような手法を、これからもしっかり考えていきたいと考えております。
講演の結びで、2,000年以上続いた日韓間の関係を考えると、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時代、1910年から1945年の植民地時代の35年間を除けば、両国間は非常に平和的・協力的でした。お互いに引っ越すことはできません。過去の憎しみや恨みで、両国の関係を断ち切ることはできません。今後とも友好・協力をお願いしますとありました。我が国の故末次一郎先生とも御親交があり、非常に日本を熟知されています。
信長の安土城、秀吉の大阪城と同様、各階に天井と床の間があり、現存天守では、松山城だけにある貴重な天守である。また、1階武者走りの4カ所に杉戸を設けているが、これは本来天守は人が住んでいた御殿建築であり、御殿ではあるじに人を近づけないようにするための仕切りであった。杉戸があるのは、犬山城の1階と松山城の1階だけであり、松山城は天守の持っていないといけない全ての特徴を兼ね備えている。
次に、3番目の大河ドラマ「太閤秀吉と海賊大将武吉」について質問させていただきます。 今、放映されている大河ドラマ「真田丸」は、高視聴率で経済効果も上がっていると聞いております。「太閤秀吉と海賊大将武吉」のタイトルをつけてみたのは、関西地方では「太閤さん」とか「秀吉さん」とか今でも親しみを持って、テレビではまず外れることがないと言われております。
│ はどのようにしているか │ │ ├──┼─────┼──────────┼─────────────────┼─────┤ │5 │福本琢美 │日本遺産“日本最大 │1 しまなみ海道海城について │ │ │ │ │の海賊”の本拠地: │2 石造物について │市 長│ │ │ │芸予諸島について │3 大河ドラマ「太閤秀吉
黒田官兵衛は1546年,播磨国姫路に生まれ,知略により秀吉の天下取りを支えた戦国時代を代表する智将として広く知られています。ある新聞には,戦国の世を生き抜いた軍師官兵衛の戦いの基本は,相手への説得を重視した点にあるそうです。NHK大河ドラマでも,そのために苦悶する様子が随所に描かれていますが,底流には人の命を粗末しないとの官兵衛の思いが伝わります。
1590年、豊臣秀吉が北条氏直を相模小田原城に攻めたとき、城内の評定で対策が評議されたが、むなしく時を過ごすのみであったという故事から、一般にいつまでもまとまらない会議、相談を指すようになった。
天正13年、1585年、豊臣秀吉の四国征伐により小早川隆景に降伏、この地は秀吉の平定したに置かれる。大坂冬の陣後、元和元年1615年、伊達正宗の長男秀宗が宇和島十万石の大名として入部後、平成27年、2015年で400年を迎えます。伊達十万石の城下町として栄えてきた宇和島市の歴史や文化、伝統の魅力を発掘、再発見する各種記念事業を開催いたします。
白石城主、初代片倉小十郎景綱は、伊達家の知将として伊達政宗を支え、豊臣秀吉、徳川家康からも高い評価を得ていたそうです。当時、藩主以外に城を持つことは許されなかった時代に築城を認められたことからも、その存在感は容易に推測できるものと思います。
交付金も減るような方向で話も聞いておりますが、先ほども答弁の中で100年、200年、あるいは500年というような話が出て、町長、まるで織田信長か豊臣秀吉、あるいは徳川家康になった気分なのかもしれませんが、わからんでもないんですが、庁舎あたり大体耐用年数50年です。
今年、県、市の補助により、魚棚2丁目の山車である豊臣秀吉像が復元され、秋祭りで運行される予定であります。今後数年かけて、古来のおねり全巻復元に力を注ぎ、吉田地域発展をと願うものであります。 今後の市の対応はどのようになっているのでしょうか。教育部長。 〔「議長」と呼ぶ者あり〕 ○議長(三好貞夫君) 後藤教育部長。
土地調査は、16世紀後半に豊臣秀吉が行った太閤検地から始まりました。その後、伊能忠敬が1800年から1816年まで足かけ17年かけて全国を測量し、大日本沿海輿地全図を完成させ、日本国の歴史上初めて国土の正確な姿を明らかにしました。日本で初めて金星の子午線経過を観測した人物でもあり、彼は1800年の56歳のときに第1次測量を開始。
天正13年の豊臣秀吉の四国征伐のとき、湯築城主の河野通直は城を明け渡し、荏原城を含め河野氏に関係した城はほとんど落城したようでございます。この後、荏原城は廃城となり、以後400年、荏原城は荒城の月のよく似合う城となり、今日に至っているとあります。高校生あたりもよく見学に来ておりますが、周りに駐車場もなく、居城後も民間人が畑として利用しており、寂しい限りであります。
また、豊臣秀吉の太閤検地以来、実態が把握できていない土地もまだ多く残っている状況だと聞いております。 ちょっとここでお伺いいたしますけれども、宇和島市の進捗率は現在66%と聞いておりますが、旧3町、旧市内においての進捗状況をまずお聞きしたいと思います。神應産業経済部長。 〔「議長」と呼ぶ者あり〕 ○議長(福本義和君) 神應産業経済部長。
黄金の茶室は、豊臣秀吉が京都御所で天皇に振る舞うために千利休監修でつくらせた茶室とのことで、当時に思いをはせることができました。ほかの展示品も本当に見事で、こんな立派なものをよくぞ宇和島に持ってこられたなと感心をいたしました。岡山県のバスが大学生を乗せてやってきているところを見て、関心の高さがうかがわれました。偶然入り口で、私どもの参議院議員の山本博司さんの御両親が八幡浜からみえました。
何か議会が理事者におもねたような、こっちでちゃんとしてあげますよという形で、何か秀吉の草履取りみたいな格好に見えるんですよね。私は、これはちょっとおかしいなと思いますので、そのあたりをわかりやすく説明していただきたいと思います。
また、城山を中心として伊達博物館に保存されておりますその重要文化財であります豊臣秀吉の自画像や伊達家の宝物、天赦園、歴史博物館、寺町界隈、また新しく今度、交流拠点、海の駅もできますけれども、そういう城山を中心とした歴史的遺産や建造物が現存して、観光に私は役立っていけるんじゃないかと、このように思っております。